昭和四十九年四月八日   朝の御理解


X御理解七十八節 

「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切なものが死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」



 自分で自分の首を絞めるような、言うなら自縄自縛的な生き方をしておっては、勿論幸せではないが、それでは先が恐ろしい。どうでも一つ、ここんところその話で大体持ち切っているように、話を頂いとりますように、本気で自分で自分の首を絞めるような生き方を改める生き方をさせてもらわなければならない。それには例えばこの七十八節にありますように、無事達者で子孫も続き、身代も出来、一代勝りのおかげのおかげの頂かれる信心を頂くことである。例え地球上の人類が滅亡するような大変なことがあったり、地球が破滅するといったような取り沙汰をお互い聞かせてもらって、それに対する生き方というものをです。
 合楽ではどうしても打ち立てて行かねばならない。いわゆる安心して、例えば予言者が言う二十五年後の人類破滅とか、地球破滅とか言ったような中にあっても、この生き方でさえ行けば、生き残ることが出来るんだと、幸せを頂き続けることが出来るんだと、神様がはっきり教えてくださるんだから、一つ本気でね、その生き方を身につけなければいけない。それには一年勝り代勝りのおかげ、親の代より子の代に、現在よりも二十五年後の方が、もっと繁盛しとると言ったようなです。おかげを頂くということ、または生き残るおかげを頂かせて頂くことのためにもです。私は今日のここんところを、本気で判らせてもらうために、一つそういう道があるならば、本当に稽古しよう、本気でそういう道を体得しよう、生き方をね神習わさせてもろうて、身につけて行かねばならない。
 そこでです。私は昨日、親教会の御造営のことと久留米の親教会の八十年の記念祭についての会合があるからという。今度は念が入りまして、往復はがきが来て、出席するかしないかというようなはがきが来てました。それで私はすぐ出席させて頂くことを出させて頂いとりましたが、昨日あちらに行ってちょっと驚きましたが、三井教会の出社は、ここと星野と北野ですが、星野と北野は揃いも揃ってこのはがきには出席できないというと言う返事がきとったほどです。それがそのひっかかってある。
 私もひっかからん訳じゃなかったけれども、こういうはがきが来たんですよ。「信徒総代会のお知らせ 来る四月七日(日曜日)午前十一時から左記のことについて、総代会を頂かして頂きますので、お繰り合わせ是非ご出席下さるようお知らせ致します」と、「会堂御造営について、親教会八十年記念祭奉迎について、その他 金光教三井教会長荒巻久人 同教会信徒総代会会長淵上米蔵」というはがきが来た。その会に出席しないということを、特に北野の先生なんかは大変な理屈を書いて手紙が来てました。はがきが。
 出社教会が総代会に出席する必要はない。とこういう訳なのです。ところが今言うようにこの問題というのは、私共三井教会に縁を頂く者は、大事なことの会合なのです。親先生もそのことが大変残念のようでした。それをこげなことを言うて来とると言うて皆にそのはがきを見せられる程ですから、本当私も残念と思いますのは、残念と思うよりも、実は私もちょっとひっかりましたと言うた。私にもそう言うて話したことでした。「ただ総代会というだけで、総代会、それに出社教会打ち寄っての話をしたいからと書いてないですから、けれども問題は御造営のことですから、この頃私も少し、あんまり活発にないですから、少し業を煮やしているところがあったんです。
 どうしたことじゃろうかと、だから総代会があって、総代会の人達がその話し合いをなさるならば拝聴するだけでも聞かせてもろうて実は出てきたんですよ」と私が申しましたら、「そうたい。そうでなからなければいけないのだ」と言う、親先生がくーっとして、「本当に出社がこげなことを言うて来て、それは成程手落ちじゃったかもしれんけども、そのために教会長荒巻久人の名前を以て出しとるじゃないかと、それにこういうことを言う」と、初まりに聞きましてね。こういう生き方がです。自分で自分の首を絞めるのです。そういう受け方をするなら、問題が言うなら御造営という、私共がどうでもこうでもという願いを立ててね、会合の話し合いですから、だから、その親先生の受けられ方もです。そげん歯痒い思いをなさらんでもよかと思うです。
 淵上先生が「親先生そげんあなたのごと言いよんなさると却ってまた血が少のうなります」と言うから、「いえそれは私も判っとるばってん。とにかく出社の先生が、しかもただ出席出来んなら、出席出来んと言えば何かご都合じゃろうと思う。けどこういう理屈まで言うてから、しかも星野あたりまでがこげなことを言うて来てから」と言いよんなさいました。たったそれだけのことです。
 けれども、私共はそれをいっちょも問題にしないです。問題にするどころか、昨日は決定的な意味の会合でしたから、本当に出席させてもらって良かったと思わしてもらうのです。結局はどうかと言うと、問題にならんことを問題にすることが、私は自分の首を自分でしめるようなことになるんだと思うです。それにはね、やはり、神のおかげを知らぬから、神の大恩を知らぬからです。神様の働きを知らぬからです。
 お話の中に、今度の御本部参拝のことについていろいろ話を聞かせて頂きよったら、何かこう上手に言い回しよんなさるけど、ははあ合楽の場は初めからかてのけちゃったばいのと言うことを聞いてきたです。けど私はその場合、かてのけちゃった、神様がこげんして、合楽、合楽とおかげ頂かして下さるなあと思うて有難かったです。だから、これどもが久留米教会関係の方達は全部知ってあるけど、合楽だけが知らなかったんです。「ありゃそげなことですか」と、「この頃勝っちゃんが来とったから、そのことは知っとると思いよった」と言うようなことでしたけれども、いや、けどそのことを言うて頂かなかったそのこと自体が神様の働きだと思うとりますから、何時も何時も、ですから事実、おかげで、かてのかされるなら、かてのかされるで、却っておかげを受けて行けれることを知ってますから、実は神様のおかげなのですから、ほらもう合楽、合楽と言うて、言うならばちやほやされるならば、却って損しなければならんような感じですから、神様はそういう手の込んだ演出までして、おかげを下さるなあと言うて、お礼を申し上げる外に答が出てこないです。あんたどんがそげんなら、私どんもと言うような気持ちが起こらない。向こうが向こうならこっちもこっちという生き方はです。もうこっちもこっちと言うなら、自分で自分の首を絞めとるようなもんです。それにはね、神様のおかげと、本当のおかげと知らんから、また神の大恩を知らぬから、互い違いになってくる、 私共は最後にここの所を、この七十八節の一番頂かねばならないところをです。今日は私は、自分で自分の首を絞めるような行き方はです。いわゆる無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝りのおかげは受けられないと思う。月並みな言葉を以てすると、此方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは不自由させんと、限りないおかげが受けられる。
 ただ、なら、喜びで受けて行けば良いと、ただ、有難い有難いで理屈は何も分からんなりに、ただ受けるということでは余りものことですから、いよいよ神のおかげを知らなきゃいけん。神の大恩を知らなければいけない。知るからこそおかげになるのだ。知るからこそそれを、問題を問題にせんで済むおかげが頂かれるのだと、腹が立ったとか、かっと来たとか言うことはもうすでにね、自分の首を絞めるようなこと。だからそれを結局有難い答を出して行く。喜びで開けた道とおっしゃるから、そこをただ受けよとは余りにものことです。余りものだということは、余りに本当のことは出来ないということだ。口では有難いと受け取っても理屈が分からん。けど神のおかげが分かり、神の大恩が分かるとです。もうそう頂くことが本当だということになるのです。
 しかもここの神様、私が申しとりますように、自分で自分の首を縛らんで済むような道を本気で体得させて頂こうという生き方を、いよいよ自分のものにして行かねばいけない。お互いが、神のおかげを知らんから、一遍でも不愉快な思いをしたり、例えば信徒総代会に併せて出社の先生方にもと書いてあったら問題でなかったでしょう。けれどもそれを書いてなかったために、問題になった。だから今日は私共出席しませんと、こう言う。そこでそれを受けた教会側としても、まあ親先生は特に兄弟であり、自分の出社だった一軒の、二軒の出社が、二軒ともそういう返事を出しとる。合楽だけがただ来ておる。本当に問題にはならない。
 私はこのことはまたいつか親先生に、何時もお話したいと思いよったから、このことの例を以て、いつかお話したいと思いよることがある。「親先生、いつもこげな問題にならんことが、合楽の場合は何時も問題になっとりますね」と言うことなのです。
 こちらは問題にしないけれども、周囲が問題にする。そして道だの筋だのと言うて、難しいふうにしてしまう。成程それは手落ちのないようにすることは、勿論ですけれども、いよいよ有難いことですけれども、例えばそういうような、例えば書き間違いしとることで問題にするような、これは落としちゃあるとじゃろう。書き間違えちゃあるとじゃろうくらいな、善意な、故意ではないということ、いわゆる有難い方へ有難い方へと頂いて行く。道が何ぼでも開けてくるのにです。もうそこでプツッと切ってしもうて、そして、自分も腹立てとる。相手も腹立てさせんならん。自分の窮屈な中に、自分で、自分を窮屈な中に、いわゆる自縄自縛して行きよるようなことになる。
 まあ自縄自縛とか、自分の首を絞めるとか、事柄は私共の生活の中にたくさんあろうと思う。だからそのたくさんあることをです。いよいよ神のおかげが判り、大恩が判らせてもろうてです。これが御神慮、これが御都合。肉眼を置いて心眼を開いてないから分からん場合もありますけれども、神様の御都合に違いはないと言う生き方そういう頂き方がです。自分で自分の首を絞めることになる。それが生き残って行けれる。それがまさかの時にも生き残って行けれる唯一のそれが道であるとするなら、これは本気でそこの所に取り組まねばならないことを感じますですね。
どうぞ。